『ヴィジョンと空想』にて、私の頭に浮ぶイメージを文章にしました。
今回は、その文章を分解して、ヴィジョンなのか空想なのか見極めてみます。ひとまず、自己流なのでDIYですね。DIY心理学。
まず、ヴィジョンと空想の定義を確認してみましょう。
当初、お師匠のブログより引用させてもらうつもりでした。しかし、今朝の私はなかなかに冴えていました。
【カウンセラーなら、知っておきたい心理学の基礎講座】
第3巻の7その名も「ヴィジョン」!!
意気揚々と机の下から、DVDのパッケージを出す姿を想像ください。
そして、あ、こいつ動画配信じゃなくてDVD派なんだと思ってください。
では、講義の内容からいくつかポイントを抜粋します。
ヴィジョン:心から湧き上がるもの。テンションが上がる。そのことを考えると、ワクワクドキドキとするもの。
ファンタジー(空想):自己満足。実現の可能性はないと思っている。絶望、不安を慰めるためのもの。期待と同じ。
そして、講義とは関係なくもう一つ追加してみます。
そのほか:なぜか、ぞわぞわするもの。
では、前回の文章を上記の定義をもとに、色分けしてみます。
道から、少し高い位置に、横長の一軒家がある。
ポーチの両脇には、手入れされた草木が茂り、木が二本生え木陰を作っている。玄関を開けると、広い土間で薪ストーブが燃えている。
土間には、座りごごちの良さそうなカウチソファがある。手前の小さなテーブルの木目がつやつやと光っている。
土間から一段高いところに台所があり、南側はほぼガラス張りで庭が見渡せる。
屋内は木材がむき出しで、家の奥まで見えてしまいそうな大胆な間取りである。家主のプライベートな空間や生活が見えてきそうだが、気まずさはなく、ほどよい生活感が居心地良くもある。
わたしは、遠方から会いにきてくれた客人を出迎える。土間のカウチに案内する。この家の中でわたしが特に気に入っている空間でもある。
パートナーが台所にいて、3人分の飲み物を用意しくれている。
彼は、私と客人へ暖かい視線をおくると、自身の趣味に没頭すべく屋外の離れに向かう。南側のガラス大きな窓の横にある扉を開け、芝生が茂る小さな丘を歩いて行く。
彼の幸福そうな後ろ姿を少しだけ見送り、私はゆっくりと本日の客人に向き直る。
その後、飲み物を持って土間へと向かって行く。隠れ家にたどり着いた縁のある方との時間を愉しむためにだ。
ほんで、薪と薪ストーブの管理はパートナーに丸っとお任せする…
少し見えにくくなってしまいましたが、いかがでしょうか。
この色の部分は、文字を目で追うだけで私は幸せな気分になります。
彼が飲み物を入れてくれる部分を、空想にしてしまう己に少しへこみます。
講座では、「思った後に、大量に恐れが流れ込んできて見えなくなってしまう。真実であるほど、ブロックが強くなる」との解説が続きます。
意図せず緑色にした部分こそが、私にとって恐れがある部分のようです。
恐れや不安、痛み、自己防衛のために、この望みが自分の中にあることを受け入れられない。見なかったことにする。
夢を見て、叶わなかったときのことを想定し、自分を守るためこれ以上傷つかないように『夢見させるようなこと、いうんじゃないよっ」と火消しをするということでしょう。
講義は続きます。
「本当のヴィジョンは、パッと消えてももっと大きくなってやってくる」
嫌だと思って離れられたと思っても、何度も向こうからやってくるのです。ここまでくるとなんだか宿命のようですね。
そして、たどり着く先は、想像の範疇を軽々と超えた、もっと素晴らしいものとして指し示めされるそうです。
この解説に対し、「いやいや、そんなそんな、とてもとても」と今思うのでしたら、あなたの中の火消し役が、張り切って準備運動を始めているということです。
空想だとしても、ヴィジョンに結びつけることは可能で、目の前のことにただ尽くすこと。コミットメントし続けることなのだそうです。
恐れがある方に進めば良く、怖い方にこそ開かれた道があるというのです。
さて、思いつくままに書いた文章のなかで、自分でも気付かないうちにしていたことが一つありました。
「わたしは、遠方から会いにきてくれた客人を〜」
という2行の文章だけ、一人称が「私」ではなく「わたし」となっています。
変換ミスをしただけともいえます。ただ根拠なく思うのは、この2行こそがわたしの本望ではないかということです。
講義では、ヴィジョンの示され方は超感覚的との解説もありました。
今回の変換間違えのように、不思議な流れでさらりと指し示してくるのかもしれません。
(アホウドリ回はなかなか骨が折れることがわかった。予想外なところに着地するし)