私がセッションでイメージワーク(カウンセラーや、セラピストの声の案内を受けながら、イメージをしていく)を受けた際に、浮かんできた映像がいくつかありました。
それらが集まり、もう肚に決めるしかないヴィジョンがやっとこさできあがったようだぞ!の報告です。
ちょっぴり間があいてしまいました。心理カウンセラーを目指しています、クラリッカです。
間が空いてしまったのは、何を隠そう、ここ1か月ほど生活面で私にとってはなかなかな出来事に遭遇してしまい。(いや、起こしたのは自分だ。後ほど説明させてくだせい)
少しだけ自分のケアに集中していました。
この激しい沈みがあったからこそ、ヴィジョンを抱く意味も体感できたと思います。
さて、「イメージワークとヴィジョンはつながることがあるのか」について。
皆さんは、イメージワークの体験はありますか?
私の初イメージワークかもしれない話
実は私は、20代のころ「ヒプノセラピー(退行催眠)」に興味を持ち、地元の開業したてのサロンに一度だけ行ったことがあります。
当時の私は、「ムー」「本当は怖い話」も毎号欠かさず読むほどのスピリチュアル好きでした。なんだったら、過去世もみえてしまうかも!!と興奮しながら受けた記憶があります。
相談内容は、「引きずり続けている初恋の人について。なぜこんなに執着してしまうのか」という、変わらず少しちょっぱい内容でした。当時だって今だって執着心に真剣に向き合っています(誇らしげ)
結果、浮かんできたイメージは、どこか北欧か北米。木組みの家。キラキラしたアンティーク見ないな物がたくさん飾られている無人の家屋に不法侵入し、それを眺めてわくわくしている小さな女の子が自分。
セッション後は、頭がぽーっとしていて、解説はあまり覚えていません。
セラピストさんも、どこか自信がなさげで遠慮がちです。
結局、私は質問もぜす、不法侵入している女の子と初恋を引きずるのつながりはわからないままです。
結果、私の感想は、催眠よくわからない。イメージが浮かんだからなんだというのでした。
思うに、セラピストと私は当然ながら全くの初対面であったこと。当時の私は野生動物最盛期であり、人に心を開かないのが基本姿勢であったこと。それらが原因なのは明白です。
つまり、イメージワークを受けるにあたり、クライアント側が、セラピストやカウンセラーにある程度の信頼を抱いていないと難しいと思うのです。
そして、昨年8月
姉弟子主催の講座をzoomにて受講したさい。本来の自分とつながる、グラウンディングするイメージワークが最後にありました。
イメージワークが何なのか分からない私は、言われるまま画面を消して横たわり、イヤホンから聞こえる姉弟子の声に従ってイメージをしていきました。
最終的に、自分の大好きな場所。大自然の中に身を置く。その場所に両足で立ち地面を感じるところまで進んでいきました。
ここからは、勝手に私が作り上げたイメージを記録していきます。
イメージの中の私は、今より髪質がつやつやと健康そうな顎当たりまでのショートボブです。生地が厚めで、体に沿ったラインが美しい白いノースリーブのドレスに近いワンピースを着ています。
過去でも未来でもなく、その顔は艶々としていますが年代は不詳です。
場所は、実在する私の大好きな崖の海岸線です。パラグライダー(だったかな、したことがないなので良くわからない)の発着場で、柔らかい下草が茂り、崖からは常に風が吹いている。崖の向こうは大海原が続いています。
人気はなく、海岸線にそった砂利道を数分車で進むと到着する、地元では知る人ぞ知る場所です。
そこに、「本来の私」は風を受けながら、遠くの海を見ています。無表情ですが、どこか淡々としていて佇まいは自信に満ちています。
今の私が隣に立つと、ふと微かに破顔しこちらを見ます。私は、本来の私に「あなた、素敵ねー」と気持ちを込めて笑いかけます。本来の私は、口もとに笑みを残したまま、また海に向き直ります。
風を受けた草と奥に続く丘陵に生えた牧草がどこまでも波打っていきます。
本来の私といっしょになるまでが、このイメージワークの流れでした。私は、まだ一緒にはなれなさそうだと思いました。ただただ、この素敵な自分が、大好きな場所の最高の季節の瞬間にいることに、何とも言えない満たされた気持ちになったのです。
その後も、何かの折にふとそのイメージを思いだしていました。
変わらず、私は風を受けて、ショートボブの頭を少し乱しながらも、気持ちよさそうに海岸線を見ています。雲量8割の劇的な空が広がっています。
今思えば、彼女は何かを淡々と待っているようでした。
そのイメージに大きな変化が起きます。
一つは、女性性を高めたい、もっと家族とのわだかまりを癒してつながりないとの思いから受けた継続カウンセリングの最後のイメージワークで母とつながり(何言ってるかわからないですよね。全くそう思う。ここ、そのうち記録します)
そして、これらの講座や気づきから、違和感なく自分が信頼できるヴィジョンとはなんだろう、と。
危機的状況にありながら、自分を支えてくれるコミットメントやヴィジョンとはどんなものだろうとほぼ1ヶ月間考え続けていたのです。
この辺りの記事が、もがいていた頃のものですね。
ええと、ここで少しだけ書きますと、先月中旬からほぼ一か月、パートナーとの仲が危機的状況を迎えていたのです。(さらりとゲロリ)
簡単に言いますと、我が家のロックマン(超自立男性。話し合い?そんなものはしねぇ。俺の心や感情なんてものは他人に伝える必要なんてねぇ。誰も分かるわけねぇというような人。なのに影があって魅力的)が、秘儀の天照(天照大神の天岩戸より。引きこもりのことを、技として思いつきで先程命名した)発動いたしまして。仕事と趣味に出かける以外、引きこもっちゃった。
原因は、私が、相手を大切に思っていること、感謝や単純に好きでござるよと伝えるという恋愛講座の課題に取りくめない自分に気が付いたこと。
出会いから今まで、まったく相手に向き合っていなかったのではとの焦りに意識を取られていたこと。
今日こそ伝えるぞ。今日こそ伝えるぞと構えすぎて重くなる。重くなった思いはますます出てこない。
その重量感ある思いを抱えていた際に、相手の些細な言動で私が切れるという、パートナーにとっては、本当に意味のわからない貰い事故を与えてしまいました。
このあたりの流れを、後日レポートまとめて、皆さんに危険な行為であるとお伝えしたい。思いつめ系の女性たちよ。モヤッとして確認したいこと、気になること、伝えたい好意は、その場で、難しいならその日のうちに相手に伝えよう。
密度が濃くなる前にね。思いが重くなる前にね。武器を手にしちゃう前にね。
まだまだ曲がり切れていなかった、自分の人生やパートナーシップの課題が、恋愛講座とお弟子講座であますところなく発露されたのです。逃げ場なんて、ないくらいに。
さて、現実の辛い状況の中、私はどうしていたのか。
こんなことまで記録として開示いたしますよ。
まず、秘技天照発動中は相手は怒りの最中にいます。引きこもりは「怒りの表現」なのだそうです。
他者にぶつけられない思いを抱え込み、消化活動にはいっているのでしょう。
余談ですが、私はどちらかと言うと、ぶつけて関係を破壊してしまうことが昔は多く、この忍耐強い怒りの表現は正直よくわかりません。
唯一の引きこもり経験は、数個前の仕事でパワハラ後のクビ騒動後、3ヶ月間実家に篭りスカイリム(海外のオープンワールドのテレビゲーム。オフラインなので、他者との交流がなく、世界観にひたすら没入できた)で遊んだぐらいです。
当時の思い出は、弟竹蔵に「せめて、部屋着から着替えて、1日1回は化粧をしなよ」と注意を受けたこと。
母は、帰宅すると私がリビングで遊ぶスカイリムも一緒に見て、きゃっきゃと喜んでいたことぐらいしか記憶にありません。
当時は、恋も仕事も失い、散々な3ヶ月でしたが、20代と言う若さだけで乗り切ったのです。よくやった。
話がそれました。
今の私は、根拠なく若さだけで乗り切るという荒業は少し難しいです。
恋愛講座10回では、お師匠がこのように解説していました。
忍耐は愛だが、我慢は愛ではない。忍耐するとき、その先や相手に光や価値を見ている。相手の成長を信頼して待つことができる。
パートナーシップでは、双方が成長しつど相手を引っ張り上げる。そこに競争や張り合いはない。ただ、相手の価値をみて、我慢をすることなく成長を信じてそのタイミングがやってくるまで、光を見続けるといったところでしょうか。
まさにまさに、パートナーが秘儀天照発動中の私に求められていることである!
とピンと来たわけです。
では、現実はひとまず置いておいて。
私が「ああ本当に幸せ」と思える瞬間について思いを馳せます。
おもえば、「母より受けていた愛情を思い出す」というイメージワークを受ける前も、自分なりに一生懸命にヴィジョンを描こうとしていたのです。
そのどれもが、頭で作り上げた薄っぺらさを感じてしまい、本心ではないようで、私は納得が出来ませんでした。幸せを感じるどころが、支えることも難しそうです。
恋愛講座最終回受講から、2日。
久しぶりにあの海岸が頭に浮かびました。
本来の私がいます。なんと、今まででは考えららないことに、右隣にパートナーも立っています。
2人は、晩夏の心地よい海風を受けながらお互い真っ直ぐに立ちながらも、視線を合わせて微笑んでいます。
こんなパートナーの表情は、ここしばらくみてもいません。視線を合わせるのでさえ、いつぶりなのか思い出せません。
ああ、そうだ。この人はこうやって笑う人だったと海岸の私を通して、私がその笑顔を受け取っています。
2人はそれはそれは親密な、信頼し合っているもの同士だけが見せる空気を纏っています。
それは、これから一緒に向かっていく先について、お互いの覚悟を確かめ合うような、それでいてとても柔らかな空気でした。
そのまま2人は、丘の方へ身を翻します。腕を組むような、肩を組むような姿勢で歩いて行きます。ですが、どちらかが寄りかかるでもなく、2人まっすぐに、ただどちらかに何かがあれば、片方が間違いなく支えるし助けるといった、確かな足取りで歩いて行きます。まとう空気は、どこまでも柔らかなままです。
(ここで何故かト書。海岸側へ画面が切り替わり、ドローン撮影のように上空に移動)そのまま、2人が丘を横切る道へと歩いて行きます。
画面はどんどん遠ざかり、夕焼け前の水色と金色の空間を映していきます。
こんなヴィジョンが浮かびました。これ以上も、以下もありません。
終わりでも始まりでもなく、そこにあるのは、喜びと幸福だけです。
文字にすると、途端に薄まってしまうのが残念です。描いたことないけど、絵コンテとかあげればいい??
(現段階で、もうこれと肚が決まった)ヴィジョンを思うと、秘技天照が発動中でも不思議と辛さはありません。
あの映像の私は私なのだから、今はこんな状態だとしても、私は幸せだしそうなると思うのです。
さて、この水色と金色のイメージとヴィジョンを思い浮かべて数日が経ちました。
何が起きたのか。どこへ到達していくのか。
この後の変化は、ちょっと突拍子なくてまだ頭が混乱しておるのだ。時間を下されい。クラリッカでした。