心理カウンセラーなりたてのクラリッカです。リッカと呼ばれると喜びます。
準備が整い次第、カウンセリングのモニター募集をしますね。
カウンセラーいう割に、受付もしていない状態ですよね。あはは。ご興味がありましたら、その時にはぜひぜひ。
さて、自分の過去を振り返るシリーズです。
武道編。
居合道を習うことになったきっかけについてです。
といっても、3年という短い期間でありました。
23歳の私は、図書館勤務にも慣れ平日休みを持て余していました。
私は唐突に「太極拳」を習いたい。
そして、世界ウルルン滞在記で見た、激しい動きの方の太極拳をいつか習いたい。あてはないけど、いつかきっかけが見つかるはず。
そんな、軽めのふわふわなとした思いつきから新聞社主催の文化教室にやってきていました。
結果は、太極拳は人気講座のため3つある教室とも定員オーバーをしていること。そのうえ、継続者が多くまず空きが出ないとの事実を知りました。
さて、どうしましょう。
同じ水曜日に開催されている、興味を引きそうな教室を吟味します。
視界に飛び込んできた「居合道」の文字。
講師は女性です。
私は22歳のときに友人と行った京都旅行のことを思い出していました。
2004年は、NHKで新選組をしていて、かつ私は「風光る」という漫画にドはまりしていました。
普段は、流行りの時期に聖地巡礼などしないタイプです。ただ、その年だけはなぜ思いつきで友人を誘ったところ、快諾してもらい、二人でのんびりかつ、辻を歩けば聖地巡礼といった具合で、修学旅行以来の京都旅行を満喫したのです。
文化教室から、自宅に戻って早速、京都旅行の時に撮影した写真を探します。壬生寺の前でとった写真を箱の中から発掘しました。(アルバムに入れていないのはご愛敬です)
ドット柄のキャミソールにデニムのAラインスカート、足はサンダル、前髪はぱっつんの私が、だんだら模様の法被を着た大学生から受け取った刀を構えて笑っています。横では友人が同じように構えています。
あれ、私なんか堂に入ってないか。構え、なんかガチで出来ていないかとまじまじと写真を見ます。
全く根拠のない、自分素質あるかもしれんとの思い込みで、翌週あっさりと教室に申し込んだのでした。
少し年上の子育て中の女性(たまに赤ちゃんつき。空のベビーカーに刀の袋を差してやってくる日もある)同年代の物静かな女性(合気道有段者)。おじちゃん2名(陶芸趣味、弓道場にいた先生)、講師の先生1名と私の合計5名という小規模な教室でした。
居合で使用する刀は、当然刃はなく、模擬刀と呼ばれます。
模造刀との違いは、先生いわく「模造刀のほうが危険。刺さるから。模擬等は居合の練習で使うことが証明できれば問題ない。模造刀持ち歩いているの警察に見つかったら問題」とかなりざっくりと説明をしてくれました。
初めの数回は、弓道で使用していた袴を使用しまいたが、生地が薄く抜刀納刀のさいに、袴が緩んでしまい難儀していました。
いい加減、道着買ってよと先生にいわれ、私はしぶしぶ購入したのを覚えています。
自分用の最低ランクの模擬刀と黒い上下の袴を入手し、本格的に教室がはじまりました。
私はなぜか、様になるまで道具はボロボロがかっこいいとの思い込みが強かったのです。
スポーツであれば、初心者が道具にこだわるのは無駄がなく合理的です。
しかし、武道はしょぼいぐらいがちょうどよいという、自信があるのだか無いのだかよく分からない思い込みがありました。
たまに、自宅の庭で素振りや型の振り返りをする程度で、実際の練習は週1回のみです。
若いこともあり、私の体はどんどん刀を振るには理想的な筋肉のつき方をしていきました(唐突な自画自賛)
習っていた3年間、冬が寒くなかったのです。暖までとれるなんて、筋肉は裏切らない。
私の目的は、弓道でもそうでしたが、競技としてより型を極めたいとの思いが強くありました。そのため、主に1年置きに昇段審査を受けていました。
基本の1~10の型があり、試験当日に行う型の発表があります。
審査する先生たちと、受講者に囲まれたなか、1,2名が型を披露します。
昔から、おかしな舞台根性のある私でしたが、この昇段審査だけは私は全身心臓なのか?というぐらい何も考えられない状態で行っていたような気がします。
3年が経過し、二段まで取得できました。
そろそろ、各流派独自の型を習いはじめる段階となります。
動きの全てが流動的で、基本の型が遊びのように感じるぐらい複雑です。
五段になれば、真剣の使用が始まります。
ここで私は、突然燃え尽きてしまったのです。
理由の一つは、図書館の契約が終了すること。次の仕事は週1回だけになり、勤務時間も遅くなること。
同じ教室のお子さん連れ女性から「昇段審査もっと受けたいけど、旦那さんに、ケンカしたら勝てないから真剣までは習わないでねと言われちゃった」との話を聞いたこと。
居合を極めようとしたら、彼氏できないの??と新たな私のエゴの声が誕生した瞬間でもありました。
そして、ある日、講師の先生が教室に上位の段を所持している男性の先生を連れてこられました。理由は、小柄な自身より、その先生の動きを参考にして欲しいからとの想いからでした。
徐々に、私は「自立の依存」状態(自分の技量に段々と自信をつけて来た。その分、周囲に対しコントロールを行ったり、なぜ私ばかりが頑張らなければならないの?私だったらこうする。この方法は窮屈だ。あまり良くないなどの思考にとらわれる。自立の段階で起きる現象。どなたも経験があるのではないでしょうか)となり、従前習っていた先生より、その男性先生の方から教授を受けたくなったのでした。
動作の説明が、男性先生の方が理解しやすかったというのもあったのです。
しかし、講師の先生の門下生であることに変わりません(文化教室の生徒だとしても!)
恩義と自分の欲求を秤にかけて、判断することが面倒臭くなった私は、転職により忙しくなったことを理由に居合を辞めてしまったのでした。
とまあ、これは表向きな理由でして。
奥底には、「真剣を扱う自分」を私が私自身に許可できなかったのです。
本当にしてみたかったことと、世間体、親はどう思うか。
もし今後付き合う人ができたとして、その人がドン引きしないかなど、まさに杞憂です。
ちょっぴり、後悔の残る習い事でありました。
湿気ったおせんべいみたいな話はここまでとして。
私の中で、なんとも感慨深い居合関係の思い出話を書き残します。
私が辞めてしまう1年ほど前、講師の先生は自分の道場を持ちました。
見た目は二階建ての新築住宅で、二階に30畳ほどの鏡張りのフローリングがあります。
お正月が明けてすぐに、鏡開をするので参加しないかとお誘いを受けました。
当日は、袴含め道具一式を持参してくるようにとのお達しです。
当日、お邪魔すると文化教室の生徒と近所の人たち。先生がもともと教えている演舞の生徒さんといった大勢が集まっていました。
二階の道場のテーブルの上に、大きめの生餅でできた鏡餅が置かれています。
飾りはなく、その餅を見守るように円形に皆座ります。
先生が真剣を手に中央へやってきます。
順番に、皆真剣を持って、鏡餅に刀を振り上げ切る。これが鏡開きだと説明があります。
ええ?と驚きながらも、真剣を手に持つ機会は今までなく、不思議な興奮を覚えます。
しかし、私の興奮は一瞬でしぼみます。
道場の立った地区のおじさまたちが5名ほど(もともと先生の知人のようです)先に刀を降ります。
ほんの1メートルもない距離に座り、餅を見上げている人がいる中、加減なく刀を振り上げ、振り下ろします。そこにはなんの躊躇もなく、力任せに餅へ刀をぶつけています。
自立の依存中の私は、やや醒めた気持ちで見守ります。刀で餅がきれるはずもなく、周囲の人がいながら、「訓練」を受けていない人ががむしゃらに振り下ろす型の美しくないこと。
そのおじさまたちの表情は興奮状態であり、おおよそ刀を持つ人の表情ではないと、冷え冷えとした表情で私は見守っていました。
我ながら、嫌なやつです。
居合のお教室の面々は、むしろ真剣を手にした瞬間、怯えとも覚悟ともつかない表情を見せていました。
そして、力みなく刀を上段に構え、真っ直ぐにお餅へ切っ先を振り下ろします。切るための動作なので、弧を描きます。
周囲に人がいるので、慎重に、手から抜けないギリギリの力加減で、「畏れ」を持って振り下ろしているように見えました。
真剣を持ったことはないけれど、脅威を我々は知っているのだという不思議な一体感を感じました。
(ちなみに、力のない私は、まっすぐ振り下ろせたものの、お餅の弾力にポインと弾かれて終わりました。刀をお返しした後に、切り口を見ましたが、寝起きに顔についたシーツの跡ぐらいの凹みがある程度でした。この場で最強なのは鏡餅でした)
そういえば、習いたての頃は、模擬刀を手にするだけで日頃のイライラやクサクサした気持ちが霧散する感覚が不思議でした。
初めて大会に参加した時に、講師の先生と横に並んでした会話がありました。
私が「弓道の先生は、イライラしたり、怒ったりする先生がたまにいました。居合をする先生はは静かな人が多いように感じます。居合ではピリピリしている先生は誰もいないのですね」
といったようなことを伝えました。
講師の先生は、淡々と
「刀を持っているのに、ピリピリしてたら怖いでしょ」
といって面白そうに笑っていました。
確かに、刀を腰に差しながらイライラしているようならただの危険人物です。
究極のイライラ、モヤモヤや怒りの発散には、刀をちょいと握って見るのが良いかもしれません。武器を扱う武道オススメ★というお話でした。
ちなみに、鏡開のあとは、皆でお汁粉を作って食べて、教室面々、近所のおじさま、演舞のおじさまおばさま達と和気藹々と過ごしたのでした。(本当だよっ)クラリッカでした。