瞑想心理カウンセラーリッカのつぶやき

決められないとき、自分の気持ちがわからないとき。あなたの本心をカウンセリングと誘導瞑想で一緒に発見します。

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三佐じいちゃんとその妻

母方の祖父。

ジカは、祖父の住む地名をとって〇〇のじいちゃんといつも呼んでいた。

大人になってから、母と祖父母の思い出話しをするとき「三佐」と呼ぶこともあった。叩き上げから、三佐(少佐)となった祖父を少しだけ讃えて、思い出の中では三佐と呼ぶ。

 

毎年夏休みと冬休みに、一泊二日か二泊三日で里帰りをしていた。父の運転する車で、4時間かけ峠を越える大掛かりなものであった。

この旅を、ジカも弟のトリ介も毎回楽しみにしていた。従姉妹のメゴ達(三佐の飼っていた大型インコがいつもメゴミと呼んでいた)もやってくるからだった。

 

特に夏は必ず、三佐夫婦とジカ家族とメゴ家族で海水浴に行っていた。

「じいちゃんは、人がたくさんいる浜の方は好かん」

といって、三佐は空いているキャンプスペースを毎回利用していた。海の家もなく、人気の少ない静かな空間であった。

ジカにとって海水浴とは、濃い青緑色で磯の香りが強い海原が広がる、人がまばらな静かな浜というイメージがある。車に戻るときはハマナスの藪の横をサンダルで歩く。晴れより曇天の方がハマナスは映えて格好が良かった。

 

ひとつだけ、残念なことがあった。三佐は徹底して安全管理を行い、全ての浮き輪が15メートルの長さの紐で繋がれていた。三佐いわく、遊んでいるうちに、絶対沖に流されるからだという。絶対に、だ。

 

三佐は、時間をかけて入念にテント設営をする。

「いいか、こう杭を刺したあとに汲んでおいた海水をかけて砂を固めるんだ。こうすれば砂浜でもテントを固定できる」

三佐のサバイバル講習が続く。ジカは早々に海に入りたくてウズウズしていた。母姉妹は、「2、3時間しか滞在しないし、頑丈にする必要はないのだけれど」といいつつ、三佐とその孫達を自由にさせていた。大人達は、テーブルに昼食を広げ、ビーチチェアに寝そべりのんびりと過ごしていた。母のアルバムには、三佐の妻カヲが普段着のまま、サングラスを掛けてビーチチェアで寝そべっている面白写真が残っている。

余談だが、毎年三佐の講習を無言で見続け、そのうち手伝いを始めた二人がいた。弟トリ介と従兄弟のユキちゃん(男)である。この二人は紆余曲折を経て、後に陸上と航空の自衛官になった。

 

三佐の妻カヲは、ベルベットの様な質感の、古風で真っ赤な薔薇が好きだった。カヲが脳梗塞の後遺症により、右手の自由がきかなくなると、三佐はカヲの代わりに庭の片隅で薔薇を育て続けた。

「見ろ、じいちゃん花を買わなくてもいいように、庭で育てているんだ。売っているのより立派だろう」

そういって、背の高い花が咲き乱れる庭をジカに見せる。

三佐はカヲ亡き後も、薔薇を育てていた。仏壇に供える花も毎年立派に育てていた。

 

三佐は、にわかには信じられない話をよく聞かせてくれた。先祖は四国にいたこと。大昔に女中を手打ちにして以降7代祟られている。そのため長男が育たず、もしくは早死にするため女性名をつける習わしがあること。現に7代目だった三佐の父親は、20代の若さで鉱山で爆死したとか。三佐の母は、筏で海を渡って入植したとか。三佐は予備隊には間に合わなかったけれど、自衛隊創隊時からなんとかかんとか。往年には「『「仏法は仏にきけ、分からないことは〇〇三佐に聞け』とじいちゃんは周りから頼りにされていたんだから、何でも聞きなさい」と言い出した。

3佐はビックマウスを通り越して、ホラ吹き野郎ではないのか。事実を確かめる術はなく、6名の孫達は「ああ、またか」と三佐の話しに辟易しながらも付き合っていた。

従兄弟のユキちゃん(男)が高校生の時、珍しく三佐誘われて一緒に雪まつりの会場に出かけたことがあった。三佐はちょっと顔を出すだけと言って、すぐに立ち去ろうとしていた。しかし、気がつくとどんどん奥に案内され、テントの奥に通され、三佐が現役自衛官達と和やかに懐かしそうに言葉を交わす姿をみて、実はホラ吹きではなかったのかもと思ったとか思わなかったとか。

 

ジカと従姉妹のメゴが高校生の頃、祖母カヲの面倒を見続ける三佐がすごいと2人で話をしていた。

黙って話を聞いていたメゴ母とジカ母は、「それがね」と笑いながら教えてくれた。

姉妹が幼い時、三佐はとても亭主関白であった。ソファに座る三佐の足元に、毎朝カヲがかがんで靴下を履かせていた。それを見て育った姉妹は、将来結婚する相手は、自分で靴下を履いてくれる人にしようと2人で誓い合ったのだという。

「それは、確かに無理だわ」とジカもメゴも同意した。

 

後年、ジカに会うたび三佐は「成人するまで、じいちゃんは生きられた。次は、ジカの子供を見るまでは死ねない」と話していた。

ある晴れた冬の日、三佐が家の前で倒れているのを近所の人が発見した。その後、ほぼ意識が戻ることはなかったが、死去する3ヶ月間、何度もジカは母を乗せて真冬の峠道を越えた。真夜中に移動することもあり、一度か二度はこちらが先に死ぬのではないかという危険な場面にも遭遇した。それでも、三佐と母のために役に立ててジカは嬉しかった。

 

ところで、姉妹には、行方知れずの弟がいた。姉妹は手紙を送ったが、両親の死が弟に伝わっているのかは確かめようが無かった。

実家の売却が一通り済み、弟に渡す遺産が残っていた。姉妹はジカとメゴを連れ、少ない情報をたよりに茨城に旅立つのだが、それはまた別の話となる。